今日、初めて母がこういった。
あなたにどうしても謝らなければならないと思っていることがある。
あなたは他の子とは違っていた。他の子は自分の好きなように動いていたけれど、あなたは周りを見て、いつも沢山我慢をしていた。
あなたがいつもいい子になってしまって、
飲み込んでくれたことに、親として甘えて、頼っていた。
そんなあなたが黙ったまま
風呂敷に荷物を入れて家出をすることがよくあったけれど、草むらに隠れてるのを2階から見つけたのに、他の子供に迎えに行かせたり、帰ってくるまでそのままにして、たいしたことではないとおもっていた。
でもあなたがおとなになっても自分に自信を持てず、いつも仕事が続かなかったり、所属感を持てずに苦しんでいるのをずっと見ていて、あの時のこととなにか繋がってるように思う。
あのとき、どうしてお母さんはあなたを迎えに行ってやらなかったかとずっと後悔している。
草むらにいるあなたを自分が一番に迎えに行って、抱きしめて、ごめんねと言ってやればよかったと、ずっと悔やんでる。と。
私は思わず泣いた。
あの時の小さな私に聞かせてやりたいと思った。
母が、初めて私の小さな本当の願いに思い至ったのだ。
私は母に私を見てほしかった。
抱きしめてもらいたかった。
いなくなったら気がついてもらえると思ったのだ。
私がそこにいたことを。
私の中には、あの時の待ちぼうけの寂しい子どもが残っている。
自分の心は自分でなんとかしなければいけないと、何年もいろんなことを試していた。
内省を繰り返し、近年はその子と和解したように感じてきているが、それでもいまだに私は人と温かい信頼関係を築くことが難しく、この世にいること自体が寂しくて、所在ない。
「その子が自分の中で近しく感じられるようになっている」
そのことを希望にして一歩ずつ癒やしていく。それが自分でいる責任だとも思うから。
母の言葉を反芻しながら、
あの子に語りかける。
お母さんが、迎えに来てくれたよ。
あなたがいたことは大事なことだったみたいだよ。
それで、以前に書いた自分の日記を思い出した。
家出エピソードが笑い話のネタではなく、自分の寂しさ哀しさのひとつの表現だったとちゃんと思い出せてたのが、4年前。
人生は不思議だ。思わぬところで、長い年月のわだかまりが形になって顕れて、解けたりする。
子供はやさしくて、親を助けたいと思っているし、どこまでも愛されたいと真摯に願っていると思う。
そういう子供の優しさや純粋な願いを、消費財としていることに大人は目を瞑っている。
だいたいが自分も消費されてきたからかもしれない。それに耐え、鈍く強くならざるを得なかったからかも。
自分の持っていた柔らかい愛を思い出したら、子どもの心も自分の心も見え方が変わるかもしれない。
その前に、抑えていた怒りが湧いたり、反抗期のやり直しがあるかもしれないが、仕方ないことだ。
それすらも自分が堪えてきた証として受け入れながら進んでいけば、ある日ふと救いになるようなことと、実感を伴いつつ遭遇するんだと感心する近頃。
今思えば前編だった→「迎えにいかなければならないと思った話」
https://sizukumo.hatenablog.com/entry/2019/04/20/234145
2023.6.4 射手座満月