今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

愉気

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月刊秘伝を読んでいて、

なんだか憑き物が落ちたような気持ち。

そうだ、

私はここしばらく愉気を忘れていた。

人に愉気を向けることも

自分が愉気を行うこと、
天心を忘れていた。

なんとかしなければ、と焦ったり、
いろんなものを、ひたすら得たいと求めていた。

だからなのか、ここ半年くらい、

痛みに手を当てても、
滞りに手を当てても、

愉気が起こらない。
手から染み渡る温かい広がりが感じられなかった。

やる気がないから、
手が鈍ったのだと思っていた。

あー、、そうか。

私は欲するあまり、
自分であろうとするあまり、

愉気を忘れていた。

何もない、青空のような気持ちを
すっかり忘れていた。

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繊細と鈍感

繊細ー。て最近よく言われる。

SNSで書いてることが
イメージ付けてるのかな、と思う。

SNSやブログで書くときは、
自分語りが多くて、
結構内面晒してるからな、と思う。

どちらかいうと、晒している意識もあまりない。

私は私の内面に思いきりダイブする。
ディソシエイトして思いきり体感し、
それをアソシエイトして、眺め、
文章化する。

SNSに上げるのは、
SNSを通して繋がる人の存在を
客観性として
自分のなかのジャッジラインにしているからだ。

見てくれる人がいるから書く、というシンプルな
承認欲求がモチベーションにもなり
文章化を続けることが出来る。

感情レベルから、
内面を抽象化し、なんとなく誰も傷つかず、
サラサラ読めちゃうバランスくらいまで
文章化する作業は、

自己認識の発見確認に非常に効果的だ。

内省を繰り返すことで、
気づくのも割と早くなるし、他の人の意見にも
反射的ではなく受容できる。

先日自分について知人友人にアンケートを
取らせてもらったが、
一人二人、
私は共感が深いが
他者と同一化しないように、という意見があった。

なるほど。

自分では、
相手に深く共感しても、
結果的に考察するのは自分についてだから、
そんなに同一化してるつもりはなかったけど、

そう見えるのかもな。

ディソシエイトし過ぎると
感情を味わうには良いが近視眼的に
なり、客観性を損ないやすい。

アソシエイト過ぎると、
距離をとって冷静に観察出来るが、
感覚を感じにくく、分離的な在り方になるかも。

バランス取れてる、と思い込んでいたけど、

ネットに向かって自己分析みたいなことしながら
文章化していくのは、
少し日々の感性がディソシエイトに傾きすぎるのかもな。

ディソシエイトに没頭すれば些細な動きもダイレクトに感じられるから、繊細になるし、

アソシエイトに過ぎれば鈍くもなる。

小さなつむじ風の渦中の虫か、上を飛んでる虫か、
くらい極端になると違うだろう。

繊細に感じるどころか
もみくちゃだw

内観することと同じくらい、
外の世界ともかかわらないとなー。と
思った次第。

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そうだった。思い出した。

あー、、そうだそうだ。

自己評価が低い人は、他者に対してもぞんざいで
失礼だった。

礼儀正しい丁重な物腰も
時間をかければ、単なるパフォーマンスだと
わかってしまう。

自分という最も身近な人を大事に出来ないのに、
他者を本当に尊重出来ないんだったー。

他人とは機会が少ないから
許されても、

身内にはやってしまうし、
相手にはそれもわかっちゃう。

悲しいことだ。


だから、自己愛が大事なんだった。

すぐ忘れそうになる。

新しい時代にむけての抱負

まずは可能なことから、どんなに小さい一歩でも見つけて踏み出す。

が、直近の私の態度。

完璧さや、ないものにフォーカスすることは
卒業した。(言い切り!)

そして、いろいろ考えた挙げ句に
結局腑に落ちたのは、

やはり私は心と身体の重なる世界で、
どのレイヤーとグラデーションも大切に
扱うものになりたい。

どれも分別する意味なんてなかった。

だって私自身がどちらにもいける
どちらも大事にできる人間だからだ。

そういう意味でのニュートラルさを
活かしたい。

どちらかなんて、
私には意味がない問いだった。

全体としてその人だ。

選ばなくてはならない。
そう思っていたのはもしかしたら、
私自身が誰かの領域を侵すこと、
侵されることを嫌っていたからだ。

でも、そうではない、

私が私でいることに
領域も何もなかったんだ。


だからやっぱり、学べるもの、
手が届くことから、
気が向いたことなんでもやる。

でも無理して、違う、というところに
コミットし続けないようにする。

どこにいても学べるものはある。
それは知ってる。
でも、私らしく、
生理的な快、不快を重視する。

不快が勝っているのに我慢して頑張って
続けることはしない。
私が慮らなくてはならないような(或いは慮っているつもりでうまくいかない)関係は
健全ではない。
逆もまた然り。
どちらも自分を生きるつもりで、
共にあることが満たされていられたらいいが、そうならなければ、残念だけど、という在り方がいいな。

人生は有限だ。完璧になる時間も許可も
人間には与えられてないと感じる。

怒り、とはエネルギー

私はよく拗ねたりいじけたりムッとしたりする。

そして、時々激昂する。

それらは、私の人に対する期待値であり、
稚拙な要求の手法なのだ、と思っていた。

だが、
最近の私は多分
コミュニケーションが少しづつ上がってきているし、アサーティブな技法と在り方を、それと知らずに使っているな、とわかった。

ならば、怒らなくてもできるわけだ。

怒ったり、
拗ねるシーンは
確かに減っている。
特に家庭内で。

それは、私にとっては画期的だ。

相手を機嫌や態度でコントロールすることを
慎むことが出来るようになって、
家族は家で以前よりくつろいでるし、
私も嬉しい。
罪悪感で自尊心を傷つけずに済む。

だが、それでも
怒るときがあって、

それが昨日起こったのだが、

言うこととか
至極まともだと思うわけ。

最終的には、
相手も自分の考えを言うし、
ちゃんとスッキリ終わるわけ。
しかも、私も罪悪感が全くない。

これはなんだろう。
と、一日考えて思ったのは、

怒りって
私にとっては、境界を越えて相手にコミットする
ときに、勇気よりも強く、自分を瞬時にコミュニケーションの土俵に押し上げてくれる
勢いであり、エネルギーなんだな、
ということ。

諦めたり、我慢したりして、
つい体裁や、相手のことを共感的に気にしてしまうあまり、言うことを押さえてしまうところがある
私は

怒りという勢いを使うことで
境界を飛び越えているんだ。

なーんだ、
じゃあ、別に悪くないじゃん(笑)

手法としていいとか、
悪いとか、
そんなのは置いといて、
とりあえず気付きとしてメモ。

気づきとは?

f:id:sizukumo:20180506180512j:plainそういえば、
気づくということが真実とは限らないね。

というより、
真実は数限りなくあるわけで、

気づくということは
つまり

その時の落としどころにたどりついた、
という側面があるのではないかな。

思考も人生も変わり続けるとしたら、

それくらいの認識で良い気がする。

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甘え

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今日気がついたこと。

私は甘えるのがうまい。

というか、甘えてしまう。

これも私のリソースだったのかな、ということ。

甘えるのがうまいことは、
他者のリソースを引き出すことで、
一種のリーダーシップなんだと誰かがいってた。

昔から私は甘えんぼうで、
家族を困らせたということから、
よく叱られた。

叱られる中には
もちろんつい腹いせで叩いてしまった、
というものであったり、
追い込まれた相手が錯乱して
ボコボコに叩かれつつも、
武器はそばがら枕だったりw
手加減を感じたりしたので、
重篤な怪我をしたわけではない。

本当に悲しかったことは
私が迷惑な存在なんだ、と思ってしまったこと。

甘えることで、他人から貰うばかりで
搾取するしか出来ない図々しい奴だ、
と思われてると、思い込んでしまったこと。

つい数カ月前も、
甘えたことを言って
頬を叩かれた。

その時食事をしていて、
思ったより金額がかさみ、
お金が不足していたので、
コンビニで下ろしてくるので、
ちょっと待っててといったら

相手が良いよ払うからといった。

いやいや…のやり取りがあり、
じゃあ次は私払うね、ごめんね、
といったら
頬を打たれたのだ。

相手はその一発でチャラね、という顔をして、
仕方ないわねという感じでため息を付きあるき始めた。
この人はいつもそうだ。

ムカムカと腹がたった。

口で言えばわかることを
腹立ちまぎれに叩くとは。

こちらの出来ることの提案を受け入れず、
かと言って、ただ許しもしない。

必ず制裁を加えて、
甘えを牽制し、縦の順序をはっきりさせてから
救いの手(にみえるように)を勿体つけて
差し伸べる。

そう思って見回すと
そういう構図が一つではなかった。
夫もそうだ。

私は甘える、相手が怒る、
怒った上で、『親切』を施される

私ごときにありがたや、と平身低頭(笑)

物乞いをしてるような自己意識の低さだ。

私には、それが見えなかった。

ずっと私がダメだからだと思っていた。

それは一つにはあるかもしれない。
私が、甘える、という形の
人をコントロールする手法を身につけてしまっていたから、そうしないと搾取されると
相手は感じていたのだろう。

けれど、同じ相手が平常時には
それがわたしの良いところだから
もっと甘えたら、などという。

あー、切ないなあ。

陣地争い、権力抗争。

奪い合いだ。
マウントだ。

少ないものを取り合わないとなくなる、と
思ってるんだ。
時間も体力もお金も、
愛も、自由も。

私を殴った人たちは、
自分には足りないから奪われたくない、
と思ったんだな。

きっと私が怖かったんだ。
コントロールされたくなかったんだ。
悲しくなってきた。

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近頃は進歩だと思う。

甘えなくてもいい自分になりたいと
思ってたけど、
気がついたら甘えてしまってる。
助けてもらってしまう。
優しい、対等な立場で、
受け入れてくれる人が周りに増えた。

そして、もしかしたら
甘えることができるのは、
私のリソースだと
ふと思った。

大切なのは、

相手が無理して苦しまないこと。

私が、奪わないこと。

自由に選んでくれるように、
頼るけど、断っても全然大丈夫です!と
いう心。

『お互いに』甘えることがあっても
それは助け合いなんです、と
私にも場合によって出来ることがある、と
私自身がちゃんとわかっていればいいのかも、
と思う。

人に甘えることは、

それをしても私は良いんだという自己肯定だし、
相手に対しても貴方の手を借ります、
あなたには私にはない力がある、て
信じてることだと思う。

私は甘えることが多分うまい。

でも苦しかった。
甘えてしまう自分を都度駄目なやつと思っていたし、
だから、甘えさせてくれる人の好意が
心苦しかった。

でも、これからは気持ちよく受け取ろうと思う。

ありがとう。と言って。

私も自由だが
相手も自由だ。

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