Keep Tha Sanctuary
気高い
自信がなくて自尊感情が低いのに、プライドが高い自分が嫌だなあと思ってたけど、あれはプライドではなくてコンプレックス、固執心だったのだなあーと思う。
せめてこれだけは、
これくらいは、
そういう言葉から始まるようなこだわり。
それはプライドなんかじゃなかったのかもしれないなと気がつく機会があった。
まして、他者を傷つけて拒絶する姿勢はプライドではないのだ。
上ばかり見るものじゃなくて、
等身大の自分をしっかり見つめながら
見限らない。
コツコツと
積み重ねてきた背景が結実するとき。
人に強要するものなどなく
自分と向き合い続けるベクトルの中。
練り上げられた一挙手一投足が放つ眩しさが周りを目醒めさせて引き上げるとき。
結局恣意的でなく、結果としてその人の誇りや気高さの輝きに、人が気がつくということなのか、と思った。
それが結果として本物ということなんだ、と気づいた。
そういう類の佇まいと表われを見るとき、私は心が震える。
ー
まだまだ自分の中にそれを見つけてはいないけれど、
私のロールモデルが現れたから
その輝きと気高さに心震えた部分があるのだから、
私にもきっと私なりのそれを育てることができるのではないかと願った。
迎えにきてくれた話
今日、初めて母がこういった。
あなたにどうしても謝らなければならないと思っていることがある。
あなたは他の子とは違っていた。他の子は自分の好きなように動いていたけれど、あなたは周りを見て、いつも沢山我慢をしていた。
あなたがいつもいい子になってしまって、
飲み込んでくれたことに、親として甘えて、頼っていた。
そんなあなたが黙ったまま
風呂敷に荷物を入れて家出をすることがよくあったけれど、草むらに隠れてるのを2階から見つけたのに、他の子供に迎えに行かせたり、帰ってくるまでそのままにして、たいしたことではないとおもっていた。
でもあなたがおとなになっても自分に自信を持てず、いつも仕事が続かなかったり、所属感を持てずに苦しんでいるのをずっと見ていて、あの時のこととなにか繋がってるように思う。
あのとき、どうしてお母さんはあなたを迎えに行ってやらなかったかとずっと後悔している。
草むらにいるあなたを自分が一番に迎えに行って、抱きしめて、ごめんねと言ってやればよかったと、ずっと悔やんでる。と。
私は思わず泣いた。
あの時の小さな私に聞かせてやりたいと思った。
母が、初めて私の小さな本当の願いに思い至ったのだ。
私は母に私を見てほしかった。
抱きしめてもらいたかった。
いなくなったら気がついてもらえると思ったのだ。
私がそこにいたことを。
私の中には、あの時の待ちぼうけの寂しい子どもが残っている。
自分の心は自分でなんとかしなければいけないと、何年もいろんなことを試していた。
内省を繰り返し、近年はその子と和解したように感じてきているが、それでもいまだに私は人と温かい信頼関係を築くことが難しく、この世にいること自体が寂しくて、所在ない。
「その子が自分の中で近しく感じられるようになっている」
そのことを希望にして一歩ずつ癒やしていく。それが自分でいる責任だとも思うから。
母の言葉を反芻しながら、
あの子に語りかける。
お母さんが、迎えに来てくれたよ。
あなたがいたことは大事なことだったみたいだよ。
それで、以前に書いた自分の日記を思い出した。
家出エピソードが笑い話のネタではなく、自分の寂しさ哀しさのひとつの表現だったとちゃんと思い出せてたのが、4年前。
人生は不思議だ。思わぬところで、長い年月のわだかまりが形になって顕れて、解けたりする。
子供はやさしくて、親を助けたいと思っているし、どこまでも愛されたいと真摯に願っていると思う。
そういう子供の優しさや純粋な願いを、消費財としていることに大人は目を瞑っている。
だいたいが自分も消費されてきたからかもしれない。それに耐え、鈍く強くならざるを得なかったからかも。
自分の持っていた柔らかい愛を思い出したら、子どもの心も自分の心も見え方が変わるかもしれない。
その前に、抑えていた怒りが湧いたり、反抗期のやり直しがあるかもしれないが、仕方ないことだ。
それすらも自分が堪えてきた証として受け入れながら進んでいけば、ある日ふと救いになるようなことと、実感を伴いつつ遭遇するんだと感心する近頃。
今思えば前編だった→「迎えにいかなければならないと思った話」
https://sizukumo.hatenablog.com/entry/2019/04/20/234145
2023.6.4 射手座満月
セルフイメージを高める
おそらくこれが何よりも急務
東風吹かば
長年助けてくれた、比較的親しいつながりをもてていた人たちとうまく行かなくなってここ数年でみんな去っていったけど、なんとなくその流れもピリオドしたのかな、と感じる。
つまり、もう私が親しくなりたいけどどうにもその距離感が掴めず苦しいと感じていた繋がりは全て切れてしまい、その流れは現状終わったきがする。
でもそれでいいのだ、きっと。
私は不器用すぎて、偏りすぎていて、
そばにいると傷つけたり、傷つけられたような気持ちになってしまう。
少し離れれば、沢山の
関わることで頂いた優しさや心配りを思い出せる。
だから遠くでいい。
離れていってくれていい。
その人たちが幸せである、頑張ってる、大丈夫だと信じる。
もう会えなくても仕方がないと思ってるし、
どうしてるかわからなくても
自分の心の中の感謝はなくす必要はない。
きっとそのくらいが
不器用な私の実践できる(相手を傷つけないで済むと安心できる)愛の形なのかもしれないな。小さくて消極的だけど。それくらいの器なのだ。多分いまは。
心配しないでもらいたい。
私も大丈夫。自分のこと頑張るから。
寂しさはあるのが当然。それだけ素敵な人たちだったのだから。
ありがとう。ありがとう。
自己肯定と自己受容とかいろいろ
数年前に体調崩して以来、本が読めなくなった。読む気力もなかったし、理解できないと感じることが多くなっていた。
それでそれを克服しようと資格の勉強など試みたりしたけれど、進んで活字を読むのはなかなか難しいと感じていた。
それが仕事を始めて一ヶ月、本読みたいという欲がすこしずつでてきた。
難しいものは見るだけで無理だと思ってしまうけど、物語風の噛み砕いたものなら楽しく読める。
それで、「もしアドラーが上司だったら」という本を読んでみた。
物語なので会話形式で説明されるのがわかりやすい。通勤の電車で2日で読んだ。
アドラー心理学の中で矛盾に感じていたところが(おそらくかじった人は皆引っかかると感じるところであり、そこが転換点になる可能性もあるのだろう)簡潔に書いてある。
何度か読んで、派生的に他の本も読んで学んでみたいと思わせてくれる本だった。
具体的には
「信用と信頼の並走」
「迷う判断はより大きな共同体意識への貢献意識を根拠に」
「自己肯定(機能価値)と自己受容(存在価値)の違い」
の部分。
『不完全を認める勇気を持て』アドラー派のソフィー・ラザースフェルトの言葉だそうだ。
『自己肯定』とは条件付き肯定。まさに『機能価値』と『存在価値』をごちゃ混ぜにしてしまう考え方、それが『自己肯定』という考え方。一方で『自己受容』に条件は不要だ。弱さや不足がある、不完全な自分をありのまま受け容れる。それが『自己受容』。なのだそうだ。
私は自己肯定と自己受容を同じものと考えてた。自己受容すれば自己肯定できると。言葉の定義はアドラー心理学界隈の定義づけだろうから、間違ってるとは思わないけど、分けると自分の意識付けも楽かもしれない。機能価値と存在価値の違いを意識的に明確にしていくことは私にとって必要だし、存在価値を信じることに取組むことが何より大事なことのように思う。
より大きな共同体意識を考えるなら国◁社会◁会社◁個人的範囲の付き合い◁家族◁自分かー、だとすると結局自分の意志を抑圧していくことになるんじゃないかな、第一次世界大戦第二次世界大戦のときアドラーは何を思っていたんだろう?全体主義とどう違うのかなと思ってたけど、
前提として自己一致や自己受容がベースにあって、国より大きな世界や地球、宇宙、自然な摂理、友愛など広がりを考えれば、また選択が変わってくるはずだし、共同体意識とは言っても自分の中の信念や課題を曲げて違和感のあるものに迎合しろという意味ではないのだと理解して納得できた。
ダブルバインドじゃないかと思っていたが、なにしろこの世界中が価値観の乱立、多層構造なわけだから、自分を軸に起きつつも自らの選択として目の前にある課題をこなす、という責任を果さなければ生きて行けないわけだ
それらは矛盾ではなくて、並走であり選択なのだな、
と思えば落とし込むことも出来そう。
正の注目
できなかったことでなく
できていることに注目すること。
当たり前にできていることでもいい。
試しに書いてみよう…。
無添加の食材を日々探して歩き、日々家族の健康を意識してご飯を作り続けてきたこと。
子どもが危ない目に合わないよう、無理なく行動できるよう、車の送迎、付き添いなど進んでやってきたこと。
家事とパートと育児をほとんどワンオペで頑張ってきたこと。
その間にもすこしずつやれることを更新して、勉強したりもして、10年前育児オンリーからパート復帰したときから徐々に時給を1000円以上アップしてきた。
朝5時台に起きて、家族の弁当、朝食を用意して、自分の身支度をし、ちゃんと仕事にいっている。なるべく早めに行き、コーヒーと持参のおにぎりをつまむくらい余裕のある行動ができている。
職場では誰にでも明るく礼儀正しく接する、と決めたことを、だいたいできてる。
悲しいことがあって落ち込んだり、怒ったりしても結果として自分の身の振り方を省みて、今後に還元しようと努めている。
やっぱりそれぞれが幸せであることが大事だと思い、接し方など考えている。
………私こんなにやってるではないか。
誰がどう思おうと、
誠実であろうとがんばってるではないか。
こういうことを無かったこと、出来ていて当たり前だから見ないこと、にしないで、できていることに注目するのが「正の注目」らしいが、もう少し理解を深めながら自信なり勇気なりを育てていく習慣をつけよう。