今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

宣言

私は本当に、被害者とか加害者とかの二者択一的な生き方、思考を手放したいとおもうし、私の愛する人たちにそのどちらの片棒を担がせたくないと思う。

そんな意識自体が前時代的だと思うし、
重たいし、不自由だし。

小さなことから、大きなことまで、
足元から遠くまで、
私の見える範囲、
私の内的世界の深みから、

良し悪し、善悪の決めつけ、
コントロールすることされること、
期待、によるパターンではなく、

自分自身の心身の快を再優先に
「精いっぱい、能く生きる」

ことを目指したい。

それが私のこの七年間(いや寧ろ10年)かけての右往左往の根底の思いであり、

誰にも明け渡さない
願いである。

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分かり合えるという幻想

叶姉妹instagramに共感したので貼ってみる
私も常々そう思う。
https://www.instagram.com/p/BhahN7vARnR/


昔、大好きな人と深く語り合い続け、
依存しあって、
お互いを削り合って欲しがって、
最後まではどうしても分かり合えない、
というより、私は私であって
どうしたって一つにはなれないのだ
と諦め受け入れざるを得なかった。
思えばあれはエゴの限界だったのかな、と思う。

そんなにも根気強く私に付き合い続けた友人を
今も大好きだし、尊敬してる。
そして、そんなにも深いところまで人を欲する心、寂しさという一つの信念に、
挑み寄り添おうと決め、
でも最終的には歯が立たず、
挫折した自分のこともまた、
愛とは何か少し学んだよね、と受け入れ続けた。
子どもだって、夫だって同じだ。
どんなに大事に思って
分かり合いたい、と願っても
それは果てしない。
近づくこと、深く知ることは出来るが、
他者が他者である以上、
どんな理解も相手の真理ではなく、要素の一つにしか過ぎない。
のみならず、「私」の側の思い込み、決めつけ、つまり投影に過ぎないという可能性はいつでも含まれている。

わかり合えるという言葉はつまり、optimystikな幻想か希望、もしくはシンプルな比喩(私をもっと知って欲しい、あなたをもっと知りたいという)だと私は思う。

分かり合えないことは
悪いことなんかではない。
もちろん、
分かり合いたいと願いコミットすることは
お互いを助け勇気づける。
ただ、自分の限界までやってみて
もし分かり合えなくても、
ああ違うんだな、と知る(腑に落ちる)ことができれば、
相手の有り様も、思い込みも
信念も、
どんなに自分と違っても、
それが今のあなた(の持ち物)なんだ、
これが今の私(の理解)なんだと
受け入れざるを得ない。

最終的に分かり合えなくてもあなたの
ことを、或いはあなたという私の部分を
あなたが幸せであれかしと願うことで私は愛することが出来る。

自他を知り、受け入れ、認めること。
違っても仕方ない、影響を与え合うことも
相手が変わらない自由も受け入れ、
自分の有り様を生きること。
それが多様性なのではないかと思う。

自分の善し悪しを納得させて改心?させたところで、相手は自分のものにはならない。
ただ愛すること、愛されることで
人が成長し、変化が生まれるとはあるようだ。
それはただの結果で、
世界という共同体の中の必然であり、
ギフトなんだと思う。

ついでに、
分かり合いたいという願いにはいつも罠が潜む気がする。相手を説得したい、変えたい、わからせたいとコントロールしたくなる罠。
コントロール
旧時代的で暴力的、浅慮なコミュニケーション技法だと思う。
怒鳴ったり脅したり威圧したり無視したり、
褒めたりすかしたり優しくして、
形をどんなに変えても結局は同じもの。

単純な相手への期待であり
他者の同私化を目指す勘違いに思う。

それは端的にいえば、対象存在への否定だと思う。

そういうものを
手放し続けながら生きるのが
自分の生涯かけた、巡礼旅みたいなものと
なぜか勝手に思いこんでる。

これもチャレンジ。

プライドを捨てるて、私にはめっちゃ辛い。。

知らぬうちに、
歯を食いしばってる自分に気がつく。

でも、自分のプライドなんて、
虚構だもん。

何も裏打ちのない、砂の上の城だもん。

ただ守られて、
努力もしないでやってこられたのに、
ぬくぬく
自尊心ばかり高くなって

それでも傷つかないようにやってこられたのは、
家族のおかげなんだ。。

と、
それを制限だと思って、
そこから自由になりたいと思って、

まず小さな1歩踏み出してみて、
思い知らされる。
いかに自分に何もないか。

ちくしょー、、
この気持ち、忘れない。

やらないのは本気でしたくないから、ていう

うーん、、
ずっとモヤモヤしてるので
書く。

子どものいない方、
独身の方に、
「そろそろ結婚しないと」
「こどもはまだ?」
とかいうのは、本当大きなお世話で、
もうハラスメントだと思うのよね?

でも、
結婚してたり、こどもがいて
好きなことを我慢してる人に
言い訳だ、本気でやりたくないんだ、
と言って突き放したり
育て方がどうの、とかいうのもまた
ハラスメントになる場合もあるのではないかと思うのですよ。
責任がないのに、勝手にジャッジすんなよってね。私はそう思うこと、あるわけです。

ハラスメントとかいうと、
なんだかちょっと狭量な言い方になるかもだけど、、

状況は人によって本当に違うから、
その人が本当になにかをやりたいなら、
そのできる範囲を少しずつ拡げたり、
優先順位を精査して、家族の安定のために
自分がこらえたり、人に協力を求めたり、
どうしたら一番うまく行くか、
経済的な無理はないか、
こどもやパートナーに負担かけないか、
考えるのはその人が抱いてる責任「観」の
表れだと思うわけですよ。
その「観」の奥に
その人を作る世界「観」があって
これまでの来歴、喜び、哀しみ、大切なもの、捨てなきゃと思ってるもの、つまり価値「観」を作ってきた人生があるわけやん。

その葛藤の最中に、
信頼してる人、好きな人に、
言い訳聞いてもらっても、
いいんじゃないの〜。と私は思うのですよ。

こどもがいて出来ない〜
旦那がいて出来ない〜
言い訳かもしれないけど、
その人にとっての事実でもある。

結果的には、
本人だけが自分を変えることが出来る。
これは同意です。

でもその過程で、
他人の存在に助けられても良いとも思う。

甘えられたり、甘えることができる相手がいるって
すごくない??

突き放されたら一人で立つしかないから、
突き放す。
これも良いかもしれない。

でも、なんだろ、

価値観ていうか立ち位置vs価値観ていうか立ち位置だと、
ディスり合いにしかならないじゃん。
もしくはどちらかが言いたいことを飲み込んで
互いに後味の悪い、暗い、自分なりの勝ちを得て次に行くだけ。
鬱憤は残る、みたいな。

じゃあどうしたら最善か、みたいなのは
もちろん私には言い切れないけど

私がこうしたい、こうしてほしい、ていうのはある。

信じて欲しいてことかな。
信じるスタンスで、その時一緒にいて欲しいてことかも。

************************************************

あなたには(私には)力がある。
望むことがあれば、それを掴む力がある。

けど、今はその時ではないとあなたは思ってる。
だから耐えたり、イライラしたり、
泣いたりしながら、
自分をなだめすかし、
騙し透かし、
言い訳しながら、
今の場所に留まろうとしてる。

何故?
今の場所も、
今の状態も、大事なんだろう。

何も悪いことではない。

でも、もしあなたが
前に進みたいなら、
欲しいものがあるなら、
よく目を凝らしてできることはないか、
もう既にやってることはないか
探してみたら。

それをオッケーして、
次にもう少しやりたいならまた考えることができるし、今の場所をこのままにしておきたいなら
それもよい。

あなたにはあなたらしく生きる力がある。


あなたがそれを拡げ掴むまで、
私はそれを聞くことはできる。

もしくはあなたが今の自分を肯定する、
それも聞くことができる。

あなたが大事だし、
いつか望む人生を自分のものにすると
信じる。
だから、タイミングもやり方もあなたが
選べるんだよ。
私はそれを常に応援してるから
心配しなくていい。

どんなあなたもあなただから。

少しずつ、変わっていく
あなたの人生と
あなたの姿を

見ているのがきっと楽しいから。

************************************

そう言ってもらえたら
私は自分で頑張れる、と思う。

あ、これ、
私が私に言ったら良いかも。
自己完結。

予言的な何か

SNSの記事と違い、
気分のクオリティを上げ気味には書かない。

気がつくと、底の方をさらうみたいに書いてて
暗いな、と自分でも思う。
仕方ない。これも私だ。

アップしてない、下書き記事を読んでいたら、
上げてない記事のほうが面白いな、と思った。

誰も読まないと思っても、
なかなか体裁を放棄するのは私には難しい。

かくして、毒や皮肉。リアルのこもったものから下書きカテゴリーに置き去りになる。

しかし、近頃読み直して気がついたが、
昨年の今頃書いていた記事は
図らずして、今の自分に響くものばかり。
なんだろう、
昨年の自分からのタイムカプセルみたい、
この中に寝かされていた手紙みたいだ。

過去の自分に励まされ、慰撫され、
寄り添われる。

人は自分に起こることは潜在意識でしっている、というけれど、
なんだか、うーむ、、だ。

単に一年前から成長進歩がない、
ということではありませんように。

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愛しいということは

愛しいということは、私の場合、
儚いと類義語だ。

今、この瞬間にだけ、
訪れた優しい風情。

偶然に
立ち現れた

すぐにつかみ損ねて消えてしまう
思い出のような
だから
身悶えするように欲し
だけど、消えないようにじっとして
ただ見つめたり

もぎ取られることを怖れて
ぎゆっとしたくなる

景色。
手ごたえ。

しかし愛しさは儚さ、無常であると
言い切ることもできない。

変わりゆくものの中に変わらないものを観て
込み上げるいとおしさもある。

その時は、怖れはしない。
むしろホッと安心して、
その愛しさを見つめる。

10年ほど前に、『時間を外した日の祭り』というカテゴリーでイベントをしたことがある。

それ自体はマヤ暦のジャンルだが、
当時はマヤ暦でも、コズミックダイアリーというものに強く惹かれていた。
マヤ暦は占いではなく宇宙の流れである。
オーガニックオーダーとよぶ有機的な流れに同化していこう、ていう感じで、
こう見えて硬派(笑)な(だった?)私の琴線に触れた。

その学びは一年くらいでマイブームが終わった(そこは軟派w)のだが、
忘れられない言葉を残した。

・インラケチ(私はあなた あなたは私)

そのことばは、それからずっと表層的な形を変えながら、私の思索の奥にい続けている。

昨日、他者への同一化や投影について感じさせるメモを書いたが、
ここでいう『あなたは私。私はあなた。』は
全く逆なのだと思ってる。

ホ・オポノポノや引き寄せの法則鏡の法則など、とインラケチは通底していると勝手に感じる。

同一化、投影からくる相手への期待を排し、
全く自分の中にある、自分から見える世界に対して、私は責任を持ちますよー、ていう
意味だと捉えてる。

野口整体も、
郵便ポストが赤いのも全て自分の責任と思え、という言葉が語られるけど、

潜在意識を扱うというのは、
この世には自分しかいない、
(もしくは私ひとりは世界の全てのつながっているから、私が世界だ、という考え。ゆえに、私が出会うものごとを
丁寧に扱うことしかない)という哲学に
立つしかないのだ、と漠然と思う。

だから、

自分の目にうつる人、物事を
捉える自分の心の動きを見て、
そんなことを引き起こさざるを得ないものがあることを許し、
そして愛していきたい。

Thank you
I'm sorry
Please forgive me
I love you