今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

嬉しい話

今日、整体をした。

結果をまず言えば、
やって良かった。
というか、やらせてもらって良かった。

本当に、整体やっていて良かったなあ、と
思った。

愉気をしていたとき、
受け手の方が泣き出した。
震災のあと、ずっと泣きたかったのに泣けなかった。
やっと泣けたっていってもらえたこと。

そういう時に立ち会わせてもらえたことの稀有さ、
その涙の重み、その人の中にある沢山のこらえてきた感情と場面を思う。

泣くことで大きく揺れる体に手を添え
愉気を続ける。

私の内も、何かがいっぱいになって、
左目から涙が溢れる。

ありがとう。

響いてくれて。

手を出させてくれてありがとう。

大切な瞬間に居合わせてもらえて
ありがとう。

何にしようとも
どう変えようとも考えず

ただ、『今』の目の前の体に寄り添いたい。

未来予測もなく、方向づけもなく。
それではただ観察であって、整体ではないのでは、と思ってしまうところもある。。


それでも
今日の私は
整体をさせてもらった、整体をした、
と言おう。
言って良いと、自分に許す。

親バカ日記

うちの子の天使っぷりが半端でない件(親バカ日記)

昨日のことになりますが、
ご飯を作っていたら、
娘がベランダに立って、何やら耳をすませているようす。

そして、
『お母さん、あの鳥はなに?なんであんなに鳴くの?』

見に行くと、欅の木にひよどりが止まって、甲高く鳴き続けている。

『ひよどりだよ。なんでだろうね。仲間を読んでいるのかもね』と、私は台所に戻った。

ふとみると、
娘は同じ姿勢でひよどりを見続けている。

耳をすますと、『ィー、イィー』と鳴き声が響く。
気にとめなかったなあ。
鳥の声。確かによくなくね、と思ってたら、
『イィー!イィー!』ともう1つ鳴き声が。
仲間がきた?と同時に若干の違和感でふりむくと、

うちの娘が鳴いてました(・_・)

かなり自然に、ひよどりに呼び掛けていました。

黄昏にひよどりと二人の世界を作ろうと真面目に呼び掛ける娘、、

こういう妖精味なところ、失ってほしくないので絶対笑いません!

自然に、にこやかに、スルーします。

で、陰で悶えますw

親ってほんとバカねw

いいの!いつまでも、私の前では天使味でいてほしいの!

昔々あるところに

女の子がいました。

ちょっと不器用だけど、
生き物が好きで、 
植物が育つのを見るのが好きでした。

そんな女の子に、お祖父さんは
自分の畑で育てるとうもろこしの種を三粒くれました。

女の子はよろこんで、
隣の空き地の隅っこに撒きました。

やがて、
細長い、今にも干上がってしまいそうな芽が出ました。

女の子は育てかたを知らなかったので、
ただただ見に行きました。

お水だけは、地面がひび割れてくると
運んできてかけてやりました。
とうもろこしより強そうな草が邪魔しにきたら、抜いてやりました。

とうもろこしはゆっくり、
毎日毎日育っていきました。
そこは、ススキの多い痩せた土地のはしっこで、そのためか、とうもろこしの茎も細くて背も小さかったのですが、

女の子は楽しみに毎日見つめていました。

ある日、小さなほうきのような花が咲きました。

それから、葉の根本から、
一つ、また一つと小さなとうもろこしのふさが現れました。

女の子は大喜び。

兄弟たちもみに来ると、
『私のとうもろこしがなった。』と
自慢しました。

暑くなりましたが、とうもろこしはちょっとずつしか大きくなりません。

女の子は心配です。
おじいさんやおばあさんに聞いても、
『肥料やってないからねえ』と言われるばかり。

水をあげながら、見守ることしか
女の子には出来ませんでした。

ある日、おじいさんとおばあさんがきて、
『お前のとうもろこしもとろう』といいました。庭の畑も立派なとうもろこしが実っています。

女の子のとうもろこしは相変わらず小さかったけれど先っちょの髭が黒く縮れてきていたので、おじいさんやおばあさんは声をかけてくれたのです。

とうとう!!

女の子はずっと見守ってきたとうもろこしを
もぎました。
一つは小さいけれど固く芯があり、パキッと音をたてました。

あと二つは、小さく干からびた芯と髭以外何もはいっていませんでした。
手にもってもぶかぶかし、
ずるっと茎から離れ、女の子は
がっかりしました。

気を取り直し、
女の子は、手元に残った小さなとうもろこしの皮をこじ開けてみました。

すると、ほんの数粒しか実がついていません。その数粒だけはキラキラツヤツヤして、
プツッと弾けそうなほど元気に張り切っていて大きいのですが、あとはでき損ないか、実もついていないのでした。
後ろからのぞいた弟が
『あれ、全然実がついてないじゃない。』
と言いました。

女の子が肩を落としていると、
おばあさんが言いました。
『蒸そうね。ちょっとしかついてないのは、甘いよ。』

女の子は頷いて、おばあさんにとうもろこしを渡しました。

しばらくして、おばあさんは蒸し上がったとうもろこしを持ってきてくれました。

女の子は受け取って、
一粒かじってみました。

とうもろこしの実はブツンと弾けて、
甘くて甘くて、何粒分の味が
一粒にぎゅうぎゅう入ってるみたいでした。

女の子は『甘い!美味しい!』と叫びました。
弟が『ちょうだい!』とやって来て
一粒かじると、
『本当に甘い!』とふざけて踊りました。

女の子は、そのあと、畑で採れた
キレイなとうもろこしも沢山食べましたが、

あのほんの数粒の、
私のとうもろこしの方が
断然甘くて美味しかった。
とこっそり思いました。

おわり
******************

今思えば、もしかして、
これって自然農法との出会いじゃない?

山のお肉のフルコース~パッソ・ア・パッソのジビエ料理

門前仲町のイタリアン、『パッソ・ア・パッソ』のシェフ有馬邦明さんの本で、山と渓谷社から発行。

ジビエにまつわる愛とこだわりが詰め込まれてて、面白かった‼

ジビエとは、フランス語で食べられる野生鳥獣、或いはそれらの料理を差します。
猟師さんの処理の仕方によって肉の鮮度、状態がまるで変わってくるというのは想像できるけど、
実は想像以上に、処理のスピードも環境も、仕留め方の精度も問われるんだなあと感心。山のプロ、人としての折り目ただしさを併せ持った人の獲物しか、よい食材にならないというジビエの率直さ。

そういう猟師さんへのリスペクト、
自然環境を鑑みつつ
生き物の命を奪い、
食材として頂ききることへの
プロ意識、使命感、情熱がひしひしと伝わってくる。

猪、ウズラ、ウサギ、鹿、鳩、キジなどよく聞くもの以外にも、ツキノワグマ、ヒグマ、アナグマ、タヌキなどのエピソードと料理の写真もふんだん。

例えば、ツキノワグマの脂は融点が低く、白く美しい。癖がなく生クリームのように使えるなんて、知るよしもなかった。それでつくったアイスやビスコッティも写真があり、とても美味しいのだそう。。

技術と心映えのある猟師さんがご高齢になってきていたり、環境問題による野生鳥獣の減少、逆に保護政策による食物連鎖のアンバランス傾向などに直面し、食の現場からみた社会的、環境的問題も語られており、単に食の楽しみだけを追う本ではなく、哲学をもった職人の奥行きを感じさせてくれた。
シェフの人となりに興味ひかれ、食べに行きたいと思った。

しかし、個人的には、
昨今のジビエは更に難しい状況に晒されていると思う。

原発事故の影響から、東北~甲信越地方(ざっくりですみません)の野生茸などには、規制値をはるかに越える放射性物質が検出されており、栗やドングリなど、動物に好まれる木の実も汚染されやすいといわれている。そうした地域の野生鳥獣は汚染のある植物、昆虫、茸類を食べ続けていることから、生体濃縮が進んでいると考えられる。

現実に熊や猪から高濃度汚染が確認されている地域も。

これもまた人間による汚染だが、
風評を避けるといって、見ないふりをして
食べ続けるという情緒的対応がマジョリティである昨今、
これまでジビエにまつわる問題に目を背けずに来られた有馬シェフが
どのように考えておられるのか、
聞いてみたい気もした。

料理とは味だけではない。
ストーリーを食することも、
料理の喜びのひとつだ。
有馬シェフの文中にもそのように書いてある。
私も全く同感だ。

ジビエはエピソードにとみ、
ストーリーがある食材として非常に魅力的だから、尚更そのストーリーの抱える矛盾、不穏当に触れるか、触れないか、
食べるものとしては気になるところでもある。

スマホ

スマホとの付き合いは難しい。大人でも難しい。まあ、ワタシにも難しい。

子どもなら尚更。
うちの子どもも、上の子が夏休みから持たせることになったけと、
依存がすごい。
しばしばネット上のグループでトラブルがあってるみたいで、つらそうで、昨夜は無理矢理取り上げた。荒れて怒ってもう大変だった。。

しばし返せ返さないで揉み合いに。大学の体育で一年間だけ合気道を選択していたのだけど、技なんかは全く出来ないが力のかわしかたなんかはちょっと覚えてて役に立った(笑)       

落ち着いてから話をする。

最後は穏やかに静かになった。

お風呂で頭を洗って、漫画を読んで、青いミカンを食べて、歯磨きして布団にいったら直ぐに寝おちた。
    
こんな無理矢理に取り上げること、
良いのか悪いのかわからない。
親の身勝手か?
でも、寝顔や寝る前の談笑、穏やかな返事は最近なくしかけてたな、と思う。

最近は甘えるみたいに触ってきたりもなく、終始イライラしていた。

家族はスマホに没頭するのを邪魔する敵みたいになってる感じだった。

子どもにとって、多分ツラくなってることがわからないツラさ。
(そういう種類のものは、残念だけど子どもの周りに沢山ある。得てしてそれは、子どものためという形で近づき、子どもの自由や自発性を弱めることになる気がする。)

それをわかっていて与えてしまって、
結局葛藤を引き受けるしかないんだなー。

悪者、横暴母さんにはなりたくないが、時々は横暴になってしまおう、
身勝手かもだけど、休ませよう、と
寝顔見て思った。

色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年

図書館で借りた『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』また今さらながら読了。
じっくり読んで3日ほどかけて。

石田衣良さんの『水を抱く』も読了。
こちらはおおよそ4時間ほどで読み終わった。

私は村上春樹さんが好きだが、読むタイミングがいつも遅い。
ねじまき鳥や1Q84も買うまでに数年遅れてしまった。
今回も、約2年遅れかな?

今回は特に、今まで読まなかったこと、今読むことになっていたのか、と運命思考を発動するほど、タイミングがいい読書になった。

いくつかの言葉が光って見えるみたいに感じたのは、私が今その言葉が必要だからかなあ。

『人の心は夜の鳥なのだ』

『人と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ(中略)痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ』

『例え君が空っぽの容器だとしても、それでいいじゃない(中略)それなら君はどこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ』

この言葉がとくに今の自分に響いた。

今回も、村上春樹さんらしいモチーフがいくつも使われている。
なんとなくな暗喩的にしか出てこなかったものも多かったけど(死を招致する石、六本めの指、かつての美しさと輝きを失った女性(滅びた王国?)鳥の声、夢…)。

正直、この話を『こういう物語』ってまとめあげて、レッテルをはるのは私にはできない。
今の自分が強い印象を受けたところを残すのみに留めておく。
でも、購入してまた読もうと思う。

『水を抱く』の方は、どうなんだろ。
比べる訳でなく、好みの話なんだけど。
最後、ささやかで小さいけど確実な救いと希望が書かれていて、ある意味読者としての期待は回収された。
しかし、なんかこう、
しっくりしないのは、
まだ東日本大震災が自分の中で続いていて、
それがここで書かれているものとの印象が違い過ぎるからかなあ。

私の中ではまだ、五年。なんだけど、その
震災での悲劇に端を発した(らしい)主要登場人物のナギのこわれっぷりは、かなり習熟度が高すぎる気がする。刊行されたのは2013年だ。
ナギがあそこまで壊れ、壊れた世界に溺れている年月と行動はもっと長くて深そうで決まっているように感じていたのに、え?え?
これでそうなったの?
まああるかもしれないけど、、その前から壊れてたんじゃないの?
なんか、説明足りなくない…?
これから世の中の時間が経過して、読む人の時間が追いつき、ナギの物語も自然になっていくんだろうか。
だが、私にはまだ早すぎた。かもしれない。
なんでたった二年でああいうのを書けるのかがわからない。いや、実際今の私がわからないんだから、五年でもダメなんだ。。
多分、私の中の時間の流れかたとは違うんだろう。

そして、震災という要素の扱いは人それぞれだろうけど、私この小説の扱いは合わなかった。
それだけのことかと思う。
壊れた女と、愛したい男。
物語自体は面白かったし、
最終的に温かい救いのある話であった。

ひとつ、続けて読んでみて、
説明不足という意味では、村上春樹さんの物語にかなわない。
いや、しかし説明不足ではないんだと思う、村上春樹小説は。情景や何かの物に対する説明は偏執的(変質的ではないよ)な箇所すらもあると思うくらいで、説明はかなりきちんとしてくれる。
語られないものがある、だけ。
欠落や喪失が浮かび上がらせる存在感。読者は知ることが永遠に出来ない謎、エピソードが、物語の裏側に沢山の時間軸として存在する『気配』だけを感じることができる。

全てある。どこかには。

知ることができるか出来ないかには
関係なく。

この本もまた読もう、
手元に置こう。
やっぱり好きだムラカミハルキでした。