今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

拗ねちゃま

熊本に行ったとき、私は密かなMISSIONに臨んでた。
自己肯定〜自己解放。
ある部分では達成された。

今は自分で自分を褒めたり、励ましたり、何があっても私が一生一緒にいるからね(当たり前だけど)、と呟いてあげることが出来るようになった。

でも、今。
一所懸命、自分に声をかけてるけど、
やっぱり
なんか抜け殻。

なんだか、
東京に帰って、忙しさから落ち着いてきたら、
私なんだか何もしたくなくなっちゃって。

食べたくもなく、本も読みたくなく、
掃除も、カフェも、新しいお店も私をワクワクさせない。
桜もあんなに綺麗なのにゆっくり見に行く気にならないし。
安心を前提にワクワクを探す毎日から
危機管理を前提に安全を探す毎日に戻ってきている。
前より断然ゆるいし、
積極的な諦めの準備は出来ていたし、
そのための四年間の成果はちゃんと出てる。


だけど、それ、本当に私のしたいことか?

なんだかもう、終わっちゃった感がすごい。

こだわりも、矜持も、諦めたつもりはないのに形骸化してしまって、
空虚なの。

ここでずっと生きていかなくちゃなの?

心の中で小さな声が何度もそういってる。
かと言って、他のどこだって同じなような、
どこにも私の居場所なんてないような気がしてる。

つまらないことだ。

早く抜け出したいから仕事探すけど、
これまた通勤可能圏内にそそるものがない。
つか、仕事だってやりたくない。
暇もヤダ。
「なんもかんも、やなの!」

はー、随分拗ねちゃったなー。

ヨシヨシ、もう、降参だ。

多分それでも

東京に戻り、片づけの合間に徐々に戻ってきた日常を過ごしている。

 

車に乗って走ると、忘れてしまっていることの多さに驚く。

 

あんなに通っていたのに、どんな道か、何があるのか、

思い出せない。

 

年齢なんだろうなとも考えるけれど、

本質的には、一度はあきらめた、手放したところだからだと思い至る。

薄情かもしれないが、

もう帰ってこない。と、考えた土地でもあるのだ。

 

でも、帰ってきた。

なぜだろう。

自分のことを「踏ん切りのつかなかったやつ」と責めるのは、もうしない。

 

私は、選んでしまったのだ。

 

これが、自分にとって捨てきれなかったものなのだ。

家族の形。

経済の形。

 

結局枠から出ることはできなかった。

短い冒険。

せめて、あるもの、いるところでやりたいことをやっていこう。

どこにいても、笑って暮らせる自分であろう。

そうなるために時間を費やしてきた。

きっと大丈夫だ、頑張りながらも笑えるはずだ。

 

そう決心して帰ってきたはずなのに、

ここ数日虚しさが近づいてきているのを感じる。

 

ふとした瞬間に、すっと入り込んでくる。

 

何をしているんだろう、私は。

そんな風に肩を落としている。

疲れているのかな。

 

友人たちは使えそうな店を教えて回ってくれたり、

近況を話に来てくれる。

 

多分、私のこちらでの生活と抜けた時間をつなぎに来てくれているのかもしれない。

友人を懐かしく思う。

会えてうれしい。

これから、もっと一緒にいなかった時のこと話せるだろうか。

 

友人の主催するマルシェに行った。

古い神社の境内で行われる市。

 

昔ここで出店したり、祭囃子を友人たちと奉納したりした。

懐かしいなと思いながら、そぞろ歩き。

 

雅楽の演奏がちょうど始まるよ」と言われたので、

おいしいコーヒーを買って椅子に座るとちょうど始まった。

 

ぽつぽつと雨が落ちる。

数年前はこんな雨にこどもが濡れるということに神経をとがらせていたな、

こうしていても、コーヒーを飲んでいられるほど、

私はたくさん手放した。

 

なのに、なんで虚しいのかな。

 

雨はすぐに止んだ。桜の花が満開で、空気がほんのりと霞み色づく。

 

立ち上がり帰ろうとして拝殿の前を通り過ぎた瞬間、涙が出る。

なんだろう。

 

お参りしよう。

お賽銭を入れて、鈴を鳴らす。

二礼二拍

首を垂れてご挨拶すると、

奥のほうから「待ってたよ。お帰り♡」と聞こえるような気がしてしまった。

今、私、帰ってきたんだな、と思う。

一礼して後にする。

 

いろいろあってこの地を離れて、また戻ってきて、

そのうえ図々しいかもしれないが、

多分それでも、私は愛されている。

 

何がなくても、必要があろうとなかろうと、

多分、愛されているんだ、と思った

 

虚しさも、失望も、

当面付き合いながら、

この町で暮らしていくことを考えよう。

 

 

嬉しい話

今日、整体をした。

結果をまず言えば、
やって良かった。
というか、やらせてもらって良かった。

本当に、整体やっていて良かったなあ、と
思った。

愉気をしていたとき、
受け手の方が泣き出した。
震災のあと、ずっと泣きたかったのに泣けなかった。
やっと泣けたっていってもらえたこと。

そういう時に立ち会わせてもらえたことの稀有さ、
その涙の重み、その人の中にある沢山のこらえてきた感情と場面を思う。

泣くことで大きく揺れる体に手を添え
愉気を続ける。

私の内も、何かがいっぱいになって、
左目から涙が溢れる。

ありがとう。

響いてくれて。

手を出させてくれてありがとう。

大切な瞬間に居合わせてもらえて
ありがとう。

何にしようとも
どう変えようとも考えず

ただ、『今』の目の前の体に寄り添いたい。

未来予測もなく、方向づけもなく。
それではただ観察であって、整体ではないのでは、と思ってしまうところもある。。


それでも
今日の私は
整体をさせてもらった、整体をした、
と言おう。
言って良いと、自分に許す。

親バカ日記

うちの子の天使っぷりが半端でない件(親バカ日記)

昨日のことになりますが、
ご飯を作っていたら、
娘がベランダに立って、何やら耳をすませているようす。

そして、
『お母さん、あの鳥はなに?なんであんなに鳴くの?』

見に行くと、欅の木にひよどりが止まって、甲高く鳴き続けている。

『ひよどりだよ。なんでだろうね。仲間を読んでいるのかもね』と、私は台所に戻った。

ふとみると、
娘は同じ姿勢でひよどりを見続けている。

耳をすますと、『ィー、イィー』と鳴き声が響く。
気にとめなかったなあ。
鳥の声。確かによくなくね、と思ってたら、
『イィー!イィー!』ともう1つ鳴き声が。
仲間がきた?と同時に若干の違和感でふりむくと、

うちの娘が鳴いてました(・_・)

かなり自然に、ひよどりに呼び掛けていました。

黄昏にひよどりと二人の世界を作ろうと真面目に呼び掛ける娘、、

こういう妖精味なところ、失ってほしくないので絶対笑いません!

自然に、にこやかに、スルーします。

で、陰で悶えますw

親ってほんとバカねw

いいの!いつまでも、私の前では天使味でいてほしいの!

昔々あるところに

女の子がいました。

ちょっと不器用だけど、
生き物が好きで、 
植物が育つのを見るのが好きでした。

そんな女の子に、お祖父さんは
自分の畑で育てるとうもろこしの種を三粒くれました。

女の子はよろこんで、
隣の空き地の隅っこに撒きました。

やがて、
細長い、今にも干上がってしまいそうな芽が出ました。

女の子は育てかたを知らなかったので、
ただただ見に行きました。

お水だけは、地面がひび割れてくると
運んできてかけてやりました。
とうもろこしより強そうな草が邪魔しにきたら、抜いてやりました。

とうもろこしはゆっくり、
毎日毎日育っていきました。
そこは、ススキの多い痩せた土地のはしっこで、そのためか、とうもろこしの茎も細くて背も小さかったのですが、

女の子は楽しみに毎日見つめていました。

ある日、小さなほうきのような花が咲きました。

それから、葉の根本から、
一つ、また一つと小さなとうもろこしのふさが現れました。

女の子は大喜び。

兄弟たちもみに来ると、
『私のとうもろこしがなった。』と
自慢しました。

暑くなりましたが、とうもろこしはちょっとずつしか大きくなりません。

女の子は心配です。
おじいさんやおばあさんに聞いても、
『肥料やってないからねえ』と言われるばかり。

水をあげながら、見守ることしか
女の子には出来ませんでした。

ある日、おじいさんとおばあさんがきて、
『お前のとうもろこしもとろう』といいました。庭の畑も立派なとうもろこしが実っています。

女の子のとうもろこしは相変わらず小さかったけれど先っちょの髭が黒く縮れてきていたので、おじいさんやおばあさんは声をかけてくれたのです。

とうとう!!

女の子はずっと見守ってきたとうもろこしを
もぎました。
一つは小さいけれど固く芯があり、パキッと音をたてました。

あと二つは、小さく干からびた芯と髭以外何もはいっていませんでした。
手にもってもぶかぶかし、
ずるっと茎から離れ、女の子は
がっかりしました。

気を取り直し、
女の子は、手元に残った小さなとうもろこしの皮をこじ開けてみました。

すると、ほんの数粒しか実がついていません。その数粒だけはキラキラツヤツヤして、
プツッと弾けそうなほど元気に張り切っていて大きいのですが、あとはでき損ないか、実もついていないのでした。
後ろからのぞいた弟が
『あれ、全然実がついてないじゃない。』
と言いました。

女の子が肩を落としていると、
おばあさんが言いました。
『蒸そうね。ちょっとしかついてないのは、甘いよ。』

女の子は頷いて、おばあさんにとうもろこしを渡しました。

しばらくして、おばあさんは蒸し上がったとうもろこしを持ってきてくれました。

女の子は受け取って、
一粒かじってみました。

とうもろこしの実はブツンと弾けて、
甘くて甘くて、何粒分の味が
一粒にぎゅうぎゅう入ってるみたいでした。

女の子は『甘い!美味しい!』と叫びました。
弟が『ちょうだい!』とやって来て
一粒かじると、
『本当に甘い!』とふざけて踊りました。

女の子は、そのあと、畑で採れた
キレイなとうもろこしも沢山食べましたが、

あのほんの数粒の、
私のとうもろこしの方が
断然甘くて美味しかった。
とこっそり思いました。

おわり
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今思えば、もしかして、
これって自然農法との出会いじゃない?

山のお肉のフルコース~パッソ・ア・パッソのジビエ料理

門前仲町のイタリアン、『パッソ・ア・パッソ』のシェフ有馬邦明さんの本で、山と渓谷社から発行。

ジビエにまつわる愛とこだわりが詰め込まれてて、面白かった‼

ジビエとは、フランス語で食べられる野生鳥獣、或いはそれらの料理を差します。
猟師さんの処理の仕方によって肉の鮮度、状態がまるで変わってくるというのは想像できるけど、
実は想像以上に、処理のスピードも環境も、仕留め方の精度も問われるんだなあと感心。山のプロ、人としての折り目ただしさを併せ持った人の獲物しか、よい食材にならないというジビエの率直さ。

そういう猟師さんへのリスペクト、
自然環境を鑑みつつ
生き物の命を奪い、
食材として頂ききることへの
プロ意識、使命感、情熱がひしひしと伝わってくる。

猪、ウズラ、ウサギ、鹿、鳩、キジなどよく聞くもの以外にも、ツキノワグマ、ヒグマ、アナグマ、タヌキなどのエピソードと料理の写真もふんだん。

例えば、ツキノワグマの脂は融点が低く、白く美しい。癖がなく生クリームのように使えるなんて、知るよしもなかった。それでつくったアイスやビスコッティも写真があり、とても美味しいのだそう。。

技術と心映えのある猟師さんがご高齢になってきていたり、環境問題による野生鳥獣の減少、逆に保護政策による食物連鎖のアンバランス傾向などに直面し、食の現場からみた社会的、環境的問題も語られており、単に食の楽しみだけを追う本ではなく、哲学をもった職人の奥行きを感じさせてくれた。
シェフの人となりに興味ひかれ、食べに行きたいと思った。

しかし、個人的には、
昨今のジビエは更に難しい状況に晒されていると思う。

原発事故の影響から、東北~甲信越地方(ざっくりですみません)の野生茸などには、規制値をはるかに越える放射性物質が検出されており、栗やドングリなど、動物に好まれる木の実も汚染されやすいといわれている。そうした地域の野生鳥獣は汚染のある植物、昆虫、茸類を食べ続けていることから、生体濃縮が進んでいると考えられる。

現実に熊や猪から高濃度汚染が確認されている地域も。

これもまた人間による汚染だが、
風評を避けるといって、見ないふりをして
食べ続けるという情緒的対応がマジョリティである昨今、
これまでジビエにまつわる問題に目を背けずに来られた有馬シェフが
どのように考えておられるのか、
聞いてみたい気もした。

料理とは味だけではない。
ストーリーを食することも、
料理の喜びのひとつだ。
有馬シェフの文中にもそのように書いてある。
私も全く同感だ。

ジビエはエピソードにとみ、
ストーリーがある食材として非常に魅力的だから、尚更そのストーリーの抱える矛盾、不穏当に触れるか、触れないか、
食べるものとしては気になるところでもある。