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毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年

図書館で借りた『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』また今さらながら読了。
じっくり読んで3日ほどかけて。

石田衣良さんの『水を抱く』も読了。
こちらはおおよそ4時間ほどで読み終わった。

私は村上春樹さんが好きだが、読むタイミングがいつも遅い。
ねじまき鳥や1Q84も買うまでに数年遅れてしまった。
今回も、約2年遅れかな?

今回は特に、今まで読まなかったこと、今読むことになっていたのか、と運命思考を発動するほど、タイミングがいい読書になった。

いくつかの言葉が光って見えるみたいに感じたのは、私が今その言葉が必要だからかなあ。

『人の心は夜の鳥なのだ』

『人と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ(中略)痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ』

『例え君が空っぽの容器だとしても、それでいいじゃない(中略)それなら君はどこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ』

この言葉がとくに今の自分に響いた。

今回も、村上春樹さんらしいモチーフがいくつも使われている。
なんとなくな暗喩的にしか出てこなかったものも多かったけど(死を招致する石、六本めの指、かつての美しさと輝きを失った女性(滅びた王国?)鳥の声、夢…)。

正直、この話を『こういう物語』ってまとめあげて、レッテルをはるのは私にはできない。
今の自分が強い印象を受けたところを残すのみに留めておく。
でも、購入してまた読もうと思う。

『水を抱く』の方は、どうなんだろ。
比べる訳でなく、好みの話なんだけど。
最後、ささやかで小さいけど確実な救いと希望が書かれていて、ある意味読者としての期待は回収された。
しかし、なんかこう、
しっくりしないのは、
まだ東日本大震災が自分の中で続いていて、
それがここで書かれているものとの印象が違い過ぎるからかなあ。

私の中ではまだ、五年。なんだけど、その
震災での悲劇に端を発した(らしい)主要登場人物のナギのこわれっぷりは、かなり習熟度が高すぎる気がする。刊行されたのは2013年だ。
ナギがあそこまで壊れ、壊れた世界に溺れている年月と行動はもっと長くて深そうで決まっているように感じていたのに、え?え?
これでそうなったの?
まああるかもしれないけど、、その前から壊れてたんじゃないの?
なんか、説明足りなくない…?
これから世の中の時間が経過して、読む人の時間が追いつき、ナギの物語も自然になっていくんだろうか。
だが、私にはまだ早すぎた。かもしれない。
なんでたった二年でああいうのを書けるのかがわからない。いや、実際今の私がわからないんだから、五年でもダメなんだ。。
多分、私の中の時間の流れかたとは違うんだろう。

そして、震災という要素の扱いは人それぞれだろうけど、私この小説の扱いは合わなかった。
それだけのことかと思う。
壊れた女と、愛したい男。
物語自体は面白かったし、
最終的に温かい救いのある話であった。

ひとつ、続けて読んでみて、
説明不足という意味では、村上春樹さんの物語にかなわない。
いや、しかし説明不足ではないんだと思う、村上春樹小説は。情景や何かの物に対する説明は偏執的(変質的ではないよ)な箇所すらもあると思うくらいで、説明はかなりきちんとしてくれる。
語られないものがある、だけ。
欠落や喪失が浮かび上がらせる存在感。読者は知ることが永遠に出来ない謎、エピソードが、物語の裏側に沢山の時間軸として存在する『気配』だけを感じることができる。

全てある。どこかには。

知ることができるか出来ないかには
関係なく。

この本もまた読もう、
手元に置こう。
やっぱり好きだムラカミハルキでした。