今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

自分に帰る場所

感覚を研ぎ澄ますということ。
或いは鈍るということの必要性。

先日、狂言師山本東次郎先生のお話を伺うなかで、私にとって一番心に残ったのは、
『刺激を追えば天井知らず。どこかでぐっと堪えて、刺激から離れる。そして自分の中を観る。深く深く入っていくと、より繊細により敏感に、物事を鋭敏に感じとることが出来るようになる。』
という部分。

わかる。

思えば、私の場合は、能の世界も、シュタイナー的な感覚世界も、整体の世界も、そうだったと思う。

より微細であればあるほど、その余波はダイレクトに、或いは遠く深く響き、

極限的に簡素化された表現はその奥、向こうを観るイマジネーションを育てる。

覆いの中で幼子が守られれば、肌感覚は鋭敏に世界を感じ、順応よりも我と我が身を先ず養う。

白足袋の美しい一踏みの柔らかさは
広い能楽堂の中の水を打った静けさの中で、観客の眼差しが注力される一点、一動作であった。

アソシエイト。アソシエイト。アソシエイト。

こんな世界にいたのだ。

過敏であってもいたしかたない。
きめ細やかな、有機的な、濃密な感覚世界。

だけど、メインストリームな社会はもっと粗削りで、ハイテンションで、乱雑だ。
情報も人の動きもスピーディーで、
効率的だ。
同時に精緻にシステム化されているようにも
思うし、
冷静、理知的、客観性、
距離感の維持が求められ
強い刺激、強烈な表現、
よりインパクトのあるドラマが
なければ届かないみたいに感じる。

ディソシエイト。ディソシエイト。ディソシエイト。

私なんかは、
進撃の巨人をおそるおそる見て、
強烈な死と生の混在に、激しい動悸で呼吸困難になった四年前より、
おそ松さんで笑える今の方が、
この社会では生きやすい。
リハビリ的。
今や、ボカロだって歌えちゃう。
息継ぎする間もないデジタル。
一種の鈍りだ。
だが、それも全然悪くない。
生きるために、生きやすいように
鈍るということは生物の必然にしかず。

ふとした瞬間に、
覚えのある繊細さ、濃密さ、肌感覚を思い出すこともできる。
丁寧な手仕事や、感覚世界を生きる表現、子どもが自我に目覚める前の幼さ等々。

それで良いのかも。

今日は、ステンドグラスの欠片、
透き硝子の優しい模様に
ふと東次郎先生の言葉を思い出した。
そうだ、なるほど。

そんな敏感さを獲得してから、
それから、
行き来出来るって、やっぱり悪くない。

どの世界も、自分の属する場所なのだから。

その上で敢えて、
時おり、感覚世界に戻れることは、
自分に帰れる一時として、
本当に大切かもしれないね。

好きなことやワクワクしたり、
没頭できることなど、
感覚を目覚めさせ、自分の中に入っていく
ことは自分を助けて、大切にすることかもしれないね。

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