今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

嫌いなことをやってみる話

年若い友人と話していた。

彼女曰く、嫌なこと、興味がなかったような世界観の人と今出会う時期に差し掛かっているらしい。

それはまた、新しい世界の広がりを感じて、
ワクワクしたことだ。

彼女はちょっと前に会った時と随分雰囲気が変わっており、素敵さも増していたので、
自分と、新しい世界にちゃんと向き合っているんだろうな、と、清々しい気持ちになった。

さて、彼女に関してはそのようにして
心配なことはないのだが、
彼女が引き合いに出した話で
随分引っかかる話があったので
またこうして書いているわけだ。

私と彼女が共通に読んでいたブログがある。
私は、そのカミソリのように容赦なく人生を斬り刻みながら余りにも本気で生を哲学する著者を
畏敬し暫くは読んでいたのだが、近頃は追い込みすぎて愉しさがない(私はそう感じた)のに辟易して読まなくなっている。

友人が引き合いに出したのはそのブログ中に登場した「嫌なことを実践する女性の話」。

その女性は自分の嫌なことに興味があった。
付き合っていた男性を全然好きではなく、
むしろ本気で嫌だった。
しかし、こんなに嫌なら結婚したらどうなるだろう、と考える。

そして結婚した。

その後、やっぱり嫌なままであると認識。

女性は思う。

こんなに嫌な人の子どもを生んだらどうなるだろう。。

果たして彼女はそれを実行に移したのち、
やはり嫌なものは嫌だった、という現在に到っているという話だ。


…………。

…………………………。

……………………………………………………え?

なんの話???

これなんの話なの???????

まあ友人は、こういう例もありますから、という感じで、私もやってみたことでいろんなことに気がついて良かった、ということを多分言いたかったので、
私は友人に引っ掛かたのではなく、
その女性に対して、ジワジワと衝撃を受けたのだ。

仮にAさんとして、
Aさんは嫌なことをやってみることに、
長いスパンかけ過ぎじゃないだろうか。

やってみたことに飽くことなく、更に嫌なことを
求めて自分を追込む。

なんの罰だろうか。

一体何故そんなにまでして
自分の嫌なことにこだわるのだろう。

私は本文を読んでいないから
Aさんの人となりは敢えて推測はしないのだが、

意識せずに同じことをしている人は
もしかしたら多いのでは、と思った。

自分を嫌なことに敢えて押し込んでいく心理。

私もそんなことあったかもな、と
ゾッとした。

なんの贖罪なんだろうか。
どうして、そんなに自分の喜びや愉しさ、快適さを奪取返上、捨て続けなくてはならないのか。

理由を探るよりも、
そのために失うものに目を向けたら、
逆にその罪深さにおののくよ。

自分を殺すことで、喜びから遠のく。
同時に関わりをもつ家族や恋人、友人も喜びを得ることが出来ない。

(そもそも関わりをもつ時点で、周りの人自体も
同じもの、呼応するものを持っているのかもしれないのだが。)

怖ろしいな。

私はそんな生き方はもうしたくない、とほとほと思った。

同じカルマの輪の中から出て、自由に笑いたい。
私の大事な人が、皆笑うようになると信じて。

愚かしくとも、

自分の喜びや
生きる力を鼓舞するための選択できるようでありたい。
同じ何かをやるでも、やらされてると誰かを加害者に仕立てて自分を被害者に追い込まず、自分が選んだんだ、と誇りを持ちたい。

自分の人生を生ききることが、
関わってくれる人への敬意にもなり、
この世に生まれた目的だと信じる。

自分のバイタルフォース下げることは
もうしたくない。

人生に嫌やなことを課し続けるなんて
憎悪だ。

私なら、
私が私に何かを課すのなら、

嫌なことに「それは嫌だ」と言って、ということ。
自分の純度をあげていくことを赦して、ということ。


私の快適、私の違和感を退け続けた
私の中の「いい子」「弱い子」な顔した怖れよ。
もういい。

成仏しなされ。
愛してるよ。今まで守ってくれてありがとう。


と言ってやりたい。

今自分がそういう方面に目を向けているだけに、
逆ベクトルに強く反応してしまったのかな。
まだまだ真逆に走ってるだけなのかもな。

きっといつかこなれて、
よい塩梅に落ち着くまで
私は自分勝手、陽気なエゴイズムを育て続ける。