今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

罪悪感

昔書いてた育児日記を読み返してみたら、
なんとまあ言い訳が多い。

実の私という人物と、
虚の「こうありたい、こうであってほしい」像(環境も含めて)がかけ離れていて、
喜べず楽しめずもがく自分がいた。

その時の現状に混乱して
失望して、
どうしたらもっとよくなれるんだろ
どうしたら自分の思う通りになるんだろ
と落ちていき、

そのうちに

いい人ぶって、
りこうぶって
正しいふりをして、
見栄をはって

どんどん乖離して行った様子が
よくわかった。

そうか、私は正しくありたかったんだ。
なぜかって?

そうすれば愛してもらえると思っていたのよ。

正しさだけを求め認める周囲に
私を一番に愛してもらえると思ったのよ。

似たような体験のない人にはわからないだろう。
正しいということの狭量さの中で育つ殺伐。
そうでない周囲との分断。

世界は美しい。
けれど人間は醜い、ずるい、強欲で破壊的だ。
私は確実に人間だ。

でも、この子達の生きる未来、生きる世界は
そうならないようにしなければ、
と思っていたのよ。

だから、過剰な豊かさを
醜くて、毒だと思った。

そう思わなければ、そうして排除しなければ(自分の中から)、
汚れた私は、子どもたちのそばにいられないと
思っていたのだよきっと。

意地になって、進んできて
気がついたら子どもはかつて私が排除しようとした世界にしっかりと適応し、
私はどちらにも適応できないまま、
正しさを捨ててもいきられるように
ないものをあれもこれもと手を伸ばして
それでも結局寂しくて、足元が崩れて

全てストップした。

そして思った。

私は許されないと思ってたんだな。

自分はやっぱりこの豊かさを受け取ってはいけない、豊かになることは悪いこと、
申し訳無いことと思ってたんだな。

ねえ、
そんなことないよ。

罪悪感で生きることは、
自分にアンダーグラウンドを作らざるをえないの。

光に当たる部分に
影が現れるように、
相反するものが現れる。

必要になってしまうの。生きるために。

だから、そのアンダーグラウンド
蠢く醜さを赦してあげて。

それは私の(あなたの)
生きたいと願う心そのものなのだから。

罪悪感という蓋を外して、
明るい自分と
ダークな自分と
ごちゃまぜになりたい。