今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

切り替わり時

新しい自分の時代に、
古くなったものは持っていけない。

古いものでも持っていけるものは
変わり続けられるものだけだ。

変化し続けられるものは、熟成するもの。
経年を劣化ではなく、価値に変えられるもの。

同じところを堂々巡りしているものは
古臭くなる。

人間だって、人間関係だって同じさ。

弱ってるときにいくら優しくて励ましてくれても、
いざ勇気を出そうとしたときに、
頭を叩く人、足を引っ張る人は、
友情ではなく、優越感のために
一緒にいるのかもしれない。


人の苦悩や、葛藤を知りながら、
いざ一歩を踏み出そうとしたときに
水を差す人を
私は信じない。

そんな人は、沼みたいな人だ。

変わる努力をしないで、
他人を煽って、足を引っ張って、
被害者になることで、
つまりは相手を加害者に仕立てようとして、
人をコントロールするなんて手法は
何度も、誰にも通用し続けられるものじゃない。

人はそんなに暇じゃないし
そんなことをし続ける人にそれほど興味も
持続できない。

それが健全さ。

だから、側にいる人がコロコロ変わるのだ。
いつもゴタゴタするのさ。

そこに居続けるのは、
同じような相手だけ。

だからさ、

それは、

共依存なんだよ。

自分が降りるしかないんだよ。

意を決してね。

それが相手のことも自由にすることだと
信じて、
意を決してね、
毅然としてさ、

自分を信じてさ。

戦いの螺旋から降りるわけ。

いいこと言うな〜井上雄彦先生は。

闘いの(殺し合いの)螺旋から、俺は降りる。

やっぱり『バガボンド』は最高に名作だわー。卍。

チャレンジその後2

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前記事の写真は、
長い付き合いな友人からもらったフィードバックの一部。

思いがけなく沢山の人が
協力してくれた。

やるよ、と言ってくれる。
私で良ければ、と手を上げてくれる。

フィードバックを読むと、
その中には、相手から見た私の姿が
浮かび上がる。

それはとても多彩だったし、
同時に自分の大切にしたい価値観が見事に反映されており、
こんなに人は他者をちゃんと、
好意的な視座で眺めてくれるものなのか、
メリットもないのに皆親切だなあ。。
と感動したし、

或いは、
きちんと頼めば
そのカテゴリーで考えてくれるんだ、と
頼もしい感じもした。

まあ、こんなことは多分人生で一度だし、
むしろ一度にしたい。
そう何度もするものじゃないな、と思う。

少なくとも、ステージで一回だ。

多分、必ずステージアップしますから、
だから迷惑かけさせてください、という気持ちを
受け入れてくれる人、
悩める人をほっておけない人が
力を貸してくれたんだな、

何度も涙を流しながら読む。

私自身が知らない、 
或いは自分に認めることを許さなかった像と
再会するかのように、
一つ一つ受け入れた。

中には少しチクッとしたり
ざわざわするものもあった。

基本は何かしたくて
関わってくれてるのだし

受け取れるもの、
受け取りたい形を
選ぶのも私次第だと思って、

心と頭をしっかり活用した。

皆暇じゃないのだ。
そんな中
自分について書いてくれたのは
心を寄せてもいいと
思ってくれたからだ。

無駄にしない。
全て
得られるものを見つける。
そんな気持ちだった。

それはある意味覚悟だな、と思った。
変わらないことで得ていた目的を捨てる。

だからだろうか、
友人知人たちの語る私の像は、
私の中に、すんなりとそれぞれ居場所をみつけていくようだった。

友人の顔を思い浮かべて
そうこう読み進めるうち

私の心が、
まるで生き物みたいにむにょむにょと動き
形を変えていくのがわかった。


ああ、とうとう変わるときが来たんだね。
今までサボタージュしながら、自分を守ってきた
『無力感』『罪悪感』『無価値感』よ。
ありがとう。
さようなら。

私は何かになるよ。
なりたいものになるよ。
それを思い出すよ。

じわじわと形になりつつある。
人の為と自分の為とが一致交差する思い。

それはやっぱり
人の回復、受容、変化に関わりたいという気持ち。

チャレンジその後

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気持ちがよい5月だ。

風が渡っていく。
一年で一番いい季節だと思う。

さて、先日一つ試みたことがある。

一つは、人にお願いして、私のポテンシャルともいえる特徴、特質を挙げ連ねてもらうこと。
2つめは、そのポテンシャルをどう使ったらいいか意見をもらうこと。

以前、こういうやり方があると聞いたときは、やりたいと思わなかった。
私のポテンシャルなどに興味があり、わざわざ書いてくれる人がいるなんてとても思えなかったし、

自分だって自分のことをジャッジしまくってるのに、この上他人からの評価に晒されるなんて
無用。自分が自分を認められたらそれで良いと
聞き流していた。

しかし、また同じことを聞く機会があり、
改めて今回はやってみよう、と思ったのは

・どう評価されようと、
 私の価値は上がったり下がったりしない。
 私の存在価値と能力は、別の位相の問題と
 理解している。

・しかし、長いこと上記を混同して来たため、
 自己認識が低かったせいで、自分のリソースに
 対しても無視を続けてきた。
 低評価で受け入れられなかったと、自己分析。

・今後は、出来ないことを高めることに
 こだわることをやめて
 普段から出来ること、自然にやってることを
 活用し、伸ばすことにしたい。
 (それこそがリソースだと理解した)

・あまりにも出来ないことばかり見てきたので
 もう好きなこともできることもピンとこない。
→では、人が見た私がやってることの中で得意そうなことや、自然なこと、好きそうなことを聞いてみるチャレンジをする(怖いけど)

・それを見て、自分の感覚とすりあわせたら
 わかるかも!(やる気)

と思ったという流れ。

そもそもは、
もっと自由にいきたい。
本当の自分の生き方をしたい。
という漠然とした願いがあって、

もちろん
使命なんて大げさなものがなくたって
十分に幸せになれるし、
そんなことを考えるのは誇大妄想だと
諌める自分もいるけど、

でも、
やっぱり私の心の中に
『役に立ちたい。』という、

傲慢だ、必要ない、今でも十分などと、
どう否定しても、諌めても

消せない思いがあるのを抑えきれない。

私は何か(わからない)になりたいし、
誰か(わからない)に役立ちたい。
それも、私が望む形で(ここ大事)!

続く

拗ねちゃま

熊本に行ったとき、私は密かなMISSIONに臨んでた。
自己肯定〜自己解放。
ある部分では達成された。

今は自分で自分を褒めたり、励ましたり、何があっても私が一生一緒にいるからね(当たり前だけど)、と呟いてあげることが出来るようになった。

でも、今。
一所懸命、自分に声をかけてるけど、
やっぱり
なんか抜け殻。

なんだか、
東京に帰って、忙しさから落ち着いてきたら、
私なんだか何もしたくなくなっちゃって。

食べたくもなく、本も読みたくなく、
掃除も、カフェも、新しいお店も私をワクワクさせない。
桜もあんなに綺麗なのにゆっくり見に行く気にならないし。
安心を前提にワクワクを探す毎日から
危機管理を前提に安全を探す毎日に戻ってきている。
前より断然ゆるいし、
積極的な諦めの準備は出来ていたし、
そのための四年間の成果はちゃんと出てる。


だけど、それ、本当に私のしたいことか?

なんだかもう、終わっちゃった感がすごい。

こだわりも、矜持も、諦めたつもりはないのに形骸化してしまって、
空虚なの。

ここでずっと生きていかなくちゃなの?

心の中で小さな声が何度もそういってる。
かと言って、他のどこだって同じなような、
どこにも私の居場所なんてないような気がしてる。

つまらないことだ。

早く抜け出したいから仕事探すけど、
これまた通勤可能圏内にそそるものがない。
つか、仕事だってやりたくない。
暇もヤダ。
「なんもかんも、やなの!」

はー、随分拗ねちゃったなー。

ヨシヨシ、もう、降参だ。

多分それでも

東京に戻り、片づけの合間に徐々に戻ってきた日常を過ごしている。

 

車に乗って走ると、忘れてしまっていることの多さに驚く。

 

あんなに通っていたのに、どんな道か、何があるのか、

思い出せない。

 

年齢なんだろうなとも考えるけれど、

本質的には、一度はあきらめた、手放したところだからだと思い至る。

薄情かもしれないが、

もう帰ってこない。と、考えた土地でもあるのだ。

 

でも、帰ってきた。

なぜだろう。

自分のことを「踏ん切りのつかなかったやつ」と責めるのは、もうしない。

 

私は、選んでしまったのだ。

 

これが、自分にとって捨てきれなかったものなのだ。

家族の形。

経済の形。

 

結局枠から出ることはできなかった。

短い冒険。

せめて、あるもの、いるところでやりたいことをやっていこう。

どこにいても、笑って暮らせる自分であろう。

そうなるために時間を費やしてきた。

きっと大丈夫だ、頑張りながらも笑えるはずだ。

 

そう決心して帰ってきたはずなのに、

ここ数日虚しさが近づいてきているのを感じる。

 

ふとした瞬間に、すっと入り込んでくる。

 

何をしているんだろう、私は。

そんな風に肩を落としている。

疲れているのかな。

 

友人たちは使えそうな店を教えて回ってくれたり、

近況を話に来てくれる。

 

多分、私のこちらでの生活と抜けた時間をつなぎに来てくれているのかもしれない。

友人を懐かしく思う。

会えてうれしい。

これから、もっと一緒にいなかった時のこと話せるだろうか。

 

友人の主催するマルシェに行った。

古い神社の境内で行われる市。

 

昔ここで出店したり、祭囃子を友人たちと奉納したりした。

懐かしいなと思いながら、そぞろ歩き。

 

雅楽の演奏がちょうど始まるよ」と言われたので、

おいしいコーヒーを買って椅子に座るとちょうど始まった。

 

ぽつぽつと雨が落ちる。

数年前はこんな雨にこどもが濡れるということに神経をとがらせていたな、

こうしていても、コーヒーを飲んでいられるほど、

私はたくさん手放した。

 

なのに、なんで虚しいのかな。

 

雨はすぐに止んだ。桜の花が満開で、空気がほんのりと霞み色づく。

 

立ち上がり帰ろうとして拝殿の前を通り過ぎた瞬間、涙が出る。

なんだろう。

 

お参りしよう。

お賽銭を入れて、鈴を鳴らす。

二礼二拍

首を垂れてご挨拶すると、

奥のほうから「待ってたよ。お帰り♡」と聞こえるような気がしてしまった。

今、私、帰ってきたんだな、と思う。

一礼して後にする。

 

いろいろあってこの地を離れて、また戻ってきて、

そのうえ図々しいかもしれないが、

多分それでも、私は愛されている。

 

何がなくても、必要があろうとなかろうと、

多分、愛されているんだ、と思った

 

虚しさも、失望も、

当面付き合いながら、

この町で暮らしていくことを考えよう。

 

 

嬉しい話

今日、整体をした。

結果をまず言えば、
やって良かった。
というか、やらせてもらって良かった。

本当に、整体やっていて良かったなあ、と
思った。

愉気をしていたとき、
受け手の方が泣き出した。
震災のあと、ずっと泣きたかったのに泣けなかった。
やっと泣けたっていってもらえたこと。

そういう時に立ち会わせてもらえたことの稀有さ、
その涙の重み、その人の中にある沢山のこらえてきた感情と場面を思う。

泣くことで大きく揺れる体に手を添え
愉気を続ける。

私の内も、何かがいっぱいになって、
左目から涙が溢れる。

ありがとう。

響いてくれて。

手を出させてくれてありがとう。

大切な瞬間に居合わせてもらえて
ありがとう。

何にしようとも
どう変えようとも考えず

ただ、『今』の目の前の体に寄り添いたい。

未来予測もなく、方向づけもなく。
それではただ観察であって、整体ではないのでは、と思ってしまうところもある。。


それでも
今日の私は
整体をさせてもらった、整体をした、
と言おう。
言って良いと、自分に許す。

親バカ日記

うちの子の天使っぷりが半端でない件(親バカ日記)

昨日のことになりますが、
ご飯を作っていたら、
娘がベランダに立って、何やら耳をすませているようす。

そして、
『お母さん、あの鳥はなに?なんであんなに鳴くの?』

見に行くと、欅の木にひよどりが止まって、甲高く鳴き続けている。

『ひよどりだよ。なんでだろうね。仲間を読んでいるのかもね』と、私は台所に戻った。

ふとみると、
娘は同じ姿勢でひよどりを見続けている。

耳をすますと、『ィー、イィー』と鳴き声が響く。
気にとめなかったなあ。
鳥の声。確かによくなくね、と思ってたら、
『イィー!イィー!』ともう1つ鳴き声が。
仲間がきた?と同時に若干の違和感でふりむくと、

うちの娘が鳴いてました(・_・)

かなり自然に、ひよどりに呼び掛けていました。

黄昏にひよどりと二人の世界を作ろうと真面目に呼び掛ける娘、、

こういう妖精味なところ、失ってほしくないので絶対笑いません!

自然に、にこやかに、スルーします。

で、陰で悶えますw

親ってほんとバカねw

いいの!いつまでも、私の前では天使味でいてほしいの!