今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

自己肯定と自己受容とかいろいろ

数年前に体調崩して以来、本が読めなくなった。読む気力もなかったし、理解できないと感じることが多くなっていた。

 

それでそれを克服しようと資格の勉強など試みたりしたけれど、進んで活字を読むのはなかなか難しいと感じていた。

 

それが仕事を始めて一ヶ月、本読みたいという欲がすこしずつでてきた。

難しいものは見るだけで無理だと思ってしまうけど、物語風の噛み砕いたものなら楽しく読める。

それで、「もしアドラーが上司だったら」という本を読んでみた。

物語なので会話形式で説明されるのがわかりやすい。通勤の電車で2日で読んだ。

 

アドラー心理学の中で矛盾に感じていたところが(おそらくかじった人は皆引っかかると感じるところであり、そこが転換点になる可能性もあるのだろう)簡潔に書いてある。

 

何度か読んで、派生的に他の本も読んで学んでみたいと思わせてくれる本だった。

具体的には

「信用と信頼の並走」

「迷う判断はより大きな共同体意識への貢献意識を根拠に」

「自己肯定(機能価値)と自己受容(存在価値)の違い」

の部分。

『不完全を認める勇気を持て』アドラー派のソフィー・ラザースフェルトの言葉だそうだ。

『自己肯定』とは条件付き肯定。まさに『機能価値』と『存在価値』をごちゃ混ぜにしてしまう考え方、それが『自己肯定』という考え方。一方で『自己受容』に条件は不要だ。弱さや不足がある、不完全な自分をありのまま受け容れる。それが『自己受容』。なのだそうだ。

私は自己肯定と自己受容を同じものと考えてた。自己受容すれば自己肯定できると。言葉の定義はアドラー心理学界隈の定義づけだろうから、間違ってるとは思わないけど、分けると自分の意識付けも楽かもしれない。機能価値と存在価値の違いを意識的に明確にしていくことは私にとって必要だし、存在価値を信じることに取組むことが何より大事なことのように思う。

 

より大きな共同体意識を考えるなら国◁社会◁会社◁個人的範囲の付き合い◁家族◁自分かー、だとすると結局自分の意志を抑圧していくことになるんじゃないかな、第一次世界大戦第二次世界大戦のときアドラーは何を思っていたんだろう?全体主義とどう違うのかなと思ってたけど、

 

前提として自己一致や自己受容がベースにあって、国より大きな世界や地球、宇宙、自然な摂理、友愛など広がりを考えれば、また選択が変わってくるはずだし、共同体意識とは言っても自分の中の信念や課題を曲げて違和感のあるものに迎合しろという意味ではないのだと理解して納得できた。

ダブルバインドじゃないかと思っていたが、なにしろこの世界中が価値観の乱立、多層構造なわけだから、自分を軸に起きつつも自らの選択として目の前にある課題をこなす、という責任を果さなければ生きて行けないわけだ

 

それらは矛盾ではなくて、並走であり選択なのだな、

と思えば落とし込むことも出来そう。