今日の光 明日の風

毎日出会うモノコトヒト、から何かを感じる自分を観る。言葉遊び

世界の中心に時々降りること

ここ数年の流れからして今年はさらに進展。自分にとって大事、なんて通り越して大好きな恩人たちとの別れが続いた。

亡くなった人もいた。私の人格的なことよりも深く人生のご縁として、私を気にかけてくださった方。

理由も話し合わずに、改善の余地もなく、もう会わない流れになってしまった人たちもいて、これまでのことに感謝しながらも、いろんなことがあっても長く続いてきたお付き合いを終わらせることに至り、自分の不徳と薄情さに、寂しいというよりいっそサバサバとした無味乾燥。

私達は多分もう違う世界にいるのだろう。

良いことか悪いことかはわからないが(それは状態であり定義次第なので)、それぞれの自分の世界線であり、能く生きる為に変えられる、また責任を持てるのはその範囲だけなのだろう。

その範囲を自分の求める価値感、希望、つまり世界観のむこうに現れる無意識潜在意識の海に向けて、整え癒やすこと、少しでも生活を嘘のないものにしていくこと(自己一致)が、自分にできる唯一無二の責任だと思う。

そうしながら、自分の望みを叶えてあげることをしていきたい。

もちろんそこには段階もあるし、他の人からみて、「矛盾してない?(笑)」と思われようが自分の中で整合性があれば、よいのだ。

 

思えば子どもとの出会いによってスピリチュアリズムの旅に出た凡そ20年前から、不思議なことが沢山起こり、縁に恵まれ、自分の課題を目にすることになった。

年月と必要も手伝って迷いつつもいろんなコンプレックスを手放し、今も行きつ戻りつしながら。

いのちだ選挙だ平和だ子どもだ霊性だと言っていた頃の私と出会った人にはもしかしたら、

お金だ仕事だスキルだと言って社会の課題、精神性の向上に無関心になりつつあるように見えるかもしれない今の私は、

およそ人間の精神性の後退、もしくは変遷、と見えるかもしれない。

けれど、私の中に整合性はある。

身動きならず頭の中だけで学び、失望も経験し、より具体的な対策、自立行動のフエーズに入ってチャレンジをしているだけのことだ。

大まかな流れは何を言われても揺らがないが、小さな方法論については人の言動から影響を受けることもある。

肚が決まってさえいれば、小さなことの修整はできるだろう。なんでも経験、無駄なことはないという範疇と思う。

コンフォートゾーンの甘い囁きを感謝して退けながら、

自分にとっての挑戦を人と比べず、積み重ねる。

そして、その奥の自分の願いと世界観の中に、時々戻る。それらは自分を幸せにしているか?それらをして元気がでるか?と尋ねる。それに照らして行動をしていく。

そういうチャレンジを日々しているのだと認めていれば、きっと私は大丈夫だ。