私は、簿記をやっているとなぜだか
「癒やされていく」と感じる。
ほったらかして腐らせてきた自分の
「きちんとする」部分を
治療するかのごとく育て直しているような気持ちになる。
まあ、勉強が身についてるかは置いといて(置いとくんかい)
今自分の居るところがよく見えるし、やっと足がついた気がする。
努力せず逃げてばかり、頭でっかちに育った大人こどもな自分のことも、よく見える。
かっこつけても社会生活上でできることなんて少ないんだ、と受け入れる毎日だ。
プライドと実情の落差が大きいばかり自責が止まらず、できないのは自分に力がないからではない、それを補うような生き方をしてこなかったせいだ、と言い訳をして
これまで大事に思って過ごしてきたことも悪いことにしかけていた。
ひどいことだ。それで育ってきた子どもたちがいるのに。
そのことにようやく立ち戻り、
等身大の自分で生きるしかない、ということを認識できたのが、今のところ鬱からの最大の恩恵だったと感じている。
ゼロか100かじゃない。
まあまあできる、
半分はできる、
まだ20%しかできない、
0から10%、
好きでよくわかる
好きだけどわからない
嫌いだけどまあ受け入れる
嫌い、全然無理
好き嫌いでなくあり(よりのあり〜なし)/なし(よりのあり〜なし)
など、多様な感覚がある。
自分を何もできない、何もない、なんて
大雑把に、極端に判断して切り捨ててしまわず、
丁寧にしつこく細やかに観ること。
そう思えるようになったのは簿記のおかげが大きいのかも。
揺るぎない貸借の世界、数値の合致に比べて
、世界はなんて曖昧で揺らぎがあるんだろうということを相対化して観ることができたから。
私は、絶対的な揺らがないものが観たかったのかもしれない。
仕事に繋がるかはわからないが
それでもいい。
今いる場所、やってることに喜びがあるのは、何か自分の生きる上での願いをかなえて、人生をケアするような意味があるに違いないと思うのだ。